太田神社例大祭

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城南地区に初夏の訪れを告げる太田神社例大祭は毎年5月15日直前の金・土・日に行なわれ宮神輿が渡御する。金曜日は午後8時に一之宮が宮出しされ、氏子担ぎ手により市野倉北町会を渡御した後、午後10時に宮入りする。土曜日は午後7時に一之宮が中央6丁目宮下児童公園に建立される御仮屋より出御、二之宮が宮出しされる。市野倉北町会御神酒所で市野倉南北両町会子供神輿と合流し、4基による連合渡御が行なわれ、一之宮と市野倉南北両町会子供神輿は午後10時に宮入り、二之宮は御仮屋に納められる。日曜日は二之宮のみの渡御となり、午後2時に御仮屋より出御され、氏子2ヶ町を渡御した後、午後6時30分に宮入りする。年間を通じて初っ端の城南神輿渡御のため、毎年大勢の担ぎ手で賑わう。
二之宮神輿の宮入  お仮屋を出た二之宮は氏子町内を巡幸した後午後6時半宮入りする。神社は池上通りから入った全くの住宅街の奥の丘の急な階段を数十段上った所にある。神職を先頭に宮入りした神輿は池上囃子の音に乗り、大拍子と笛に合わせて境内で最後の練り、差し上げを繰り返し、拝殿前で待機していた一之宮も本年度祭礼の最後の担ぎを見せ、境内は祭りのクライマックスを迎える。やがて大拍子にあわせて手締めが行われ、神輿の上の鳳凰とともに3日間巡幸していた稲穂が撒かれる。今年1年の幸運にあやかろうと境内一杯に詰めた氏子や担ぎ手が手を伸ばす。そして最後の挨拶などが終わり、神輿は白い幕で囲われて御霊移しが行われ神輿庫に収納される。
 
一之宮神輿  地元の神社役員や町会役員のみによって担がれ大拍子は括り付けず化粧綱は白色、神輿の胴の中央で強固に絞られる。昭和25年頃に本所の神輿店で購入(製作者不詳)された台輪寸法1尺8寸の白木神輿だ。二之宮が新調されて、祭礼の主役は二之宮に移り、一之宮は神輿倉に眠ることになったが、「神輿倉に保管するだけでは、寄進をして頂いた当時の氏子各位に申し訳がない」と昭和61年に綺麗な姿に修復し、同年の例大祭から神社役員や町会役員によって担がれ、二之宮との連合渡御が実現した。 
 
二之宮神輿  太田神社の氏子青年団体である市野倉睦を中心に、城南地区各睦会によって担がれる。担ぎ棒は横に組まれ、「城南担ぎ」で渡御する。品川輦台式台輪と神輿の胴の中央で強固に絞られた橙色の化粧綱により、激しい城南担ぎに耐える、頑丈な神輿だ。昭和50年に横溝良作(地元大工)により製作された、台輪寸法2尺5寸の白木神輿。一之宮を模して製作されたので、銅葺き延軒屋根の勾欄造りで、屋根に戴く大きな鳳凰が特徴だ。
 
太田神社  太田神社鎮座の年月は不詳だが、文化・文政年代の「新編武蔵風土記」に太田神社のことが記載されており350年以上の歴史を誇るものと考えられている。古くは「八幡社」と呼ばれていて、明治初年に「太田神社」と改称された。太田神社改称の由来は、当時の市野倉から六郷までを太田新六郎が所領していて、その氏神だったためという説、また、太田道灌が江戸城築城の際、この地を候補地とし、遊猟の折に検分したからとの説があるが、いずれも確証は無い。鎌倉時代の弓の名手那須与一が、当社の守本尊を身につけて戦いに臨んだと言い、神社の裏山は「那須原」と呼ばれなど、与一とのゆかりが深く戦争中は武運長久の神社として信仰が高かった。なお、大田区の区名は合併の際に大森・蒲田両区から1字づつ取ったもので神社名とは関係無い様だ。
 
 
大拍子に合わせて手締め
稲穂を撒く 
御霊移し
 
城南担ぎ 神輿の胴の脇に括り付けられた大拍子と篠笛の拍子に合わせ、「ちょいちょい」という独特の「城南担ぎ」で担がれる。小刻みに激しく神輿をもみ、小波に揺れる小舟を表現したものと言われ、いかにも旧猟師町、という担ぎ方だ。旧東海品川宿に端を発し、旧東海道沿線の鮫洲・濱川などの旧猟師町をはじめ、旧池上道沿線の大井・大森、そして大崎・五反田・戸越でも見られるが、極限られた地域内でさえも数が少なく、貴重な神輿とも言える。
 
 
5月15日前の金・土・日曜日   太田神社(03-3753-4529
(大田区中央6-3-24、J大森駅、バス→池上営業所)
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