島守神社祭礼

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多摩川を挟んで稲城市側と府中市側に押立という同名の地名がある。多摩川は史上何度も氾濫を起こしているが、今から約350年前の大洪水で1つの村が分断された名残だ。そして稲城市側に今日でも河川氾濫への惧れと信仰を示す神社として鎮座しているのが島守神社だ。例祭には周辺地域と同様に、昭和44年に地元大工の作、台輪2尺3寸の神輿に太鼓、山車が出る行列は午後1時に神社を出発し夕方神社に戻る。また、午後7時からは境内でカラオケ大会なども催され10時ごろまで賑わう。
島守神社 祭神は天照皇大神、秋葉大神、素盞嗚尊で押立地区の鎮守。村の西側にあった神明宮が明治15年(1882)当地に遷った。もとの社は天王様ともいわれた。押立村は、寛文年間(1661~72)の大洪水で多摩川の流れが変わり、川を挟んで両岸に別れてしまったままだ。北岸を本村として、この地域は近年まで府中市に属していた。昔の神社の部材を使い、壁はコンクリート作りで、小さいながら立派な社殿だ。「魔の出水、いくどもまもり島守社」という句が 島守神社の標柱の側面に彫ってあった。
 
押立の渡し 押立の渡しは、現在の稲城市押立と府中市押立町を結ぶ渡しで、島守神社の下流約150m付近に渡船場が設けられていた。多摩川の流路変更によって上流及び下流に若干移動しているが、昭和10年に下流に多摩川原橋、昭和17年に上流に是政橋が架かり、しだいに需要が少なくなって昭和17年に廃止された。近くに中野島の地名があり、かつてこのあたりに多摩川の中州の島があったのだろうか。
稲城の地名  明治22年、東長沼・矢野口・大丸・百村・坂浜・平尾の6ヶ村は、一つの村となり、「稲城村」が誕生した。この地が鎌倉時代に稲毛氏の所領であったことから当初「稲毛村」の名称が選ばれが許可が得られず、宇義のつうじる「稲城村」と命名したという。矢野口・東長沼・大丸の地に砦(小沢城・長沼城・大丸城)があったという歴史的な事実と、この地が稲の産地であり、昔からよい米がとれたということが考慮されたようだ。
 
 
宮出し 分断された稲城側押立村の祭りということに興味を持ち訪れたが、予め準備した手書きの地図と現場が全く一致せず、交番は無く、最寄り駅「稲城長沼」付近では誰に尋ねても知る人が居ない。やむを得ず多摩川方角だけを頼りに進み、そこで通る人に聞いてやっと神社にたどり着いた。先週の台風のため、1週間延期になったせいもあるのだろうが、境内に張られたテントの下で数人が談笑しているだけで、古びた小さな神輿がポツンとしょざい無げに鎮座している。昔は中学3年生の親方のもとで小学校4年以上が神輿を担ぎ、一軒一軒回ったので、お賽銭が相当集まり親方がご馳走してくれたというが、今はその面影は無く、子供姿は全く見えない。神輿も多分その頃のまま手も加えられずに保存された子供神輿なのだろう。今まで訪れた神社神輿の中で最もみすぼらしものだった。この神輿では他所からの担ぎの応援も無いだろう。そして時間になると何の儀式も無く、いきなり太鼓と山車が裏参道から出発し、神輿は村の若者数人だけに担がれて、境内を練り、鳥居をくぐって宮出しされた。住民層の変化で祭りへの関心が薄れ、氏戸数が減少して担ぎ手は少なくなり、最近、よそで見られるような近隣の応援も見られず、毎年の祭りの維持に関係者は苦労されているのではないだろうか?
 
 
7月19日に近い日曜日   島守神社(042-377-2539横田泰次様)
稲城市押立678JR南武線・稲城長沼駅 徒歩15分 )
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