青梅市

田無は鎌倉街道の谷戸に開けた土地で、室町時代には6月の1と6の日に六斎市という定期市が開かれていた。家康が江戸を居城と定めてから築城の石灰を西多摩の上成木村、下曾木村(今の青梅)に焼かせ、その石灰を運ぶための専用道路として青梅街道が開かれると、田無はその中間の宿場として人が集まるようになったので必然的に市にも活気が出てきた。丁度この時期は梅干や梅酒に使う青梅の季節で何時の頃からか総持寺の門前に青梅市が立つようになり、これが人気を呼ぶようになった。市が寺社の祭礼や縁日と結びついたいわゆる観音市の名残を留めたものと言われている。

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総持寺の門前に立つ青梅市  青梅市というが青い梅は殆ど無く色づいたものばかり。時々土地の人が訪れて買ってゆくが閑散とした市だ。

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田無の地名 「田無」の地名は「新編武蔵風土記稿」で「逃水の里」と言われるほどに水に乏しい荒野であったため田ができず,すべて畑であったところから名付けられたといわれる。「土性は黒土にて,皆畑なり,故に「田無村」と称すと云う,されど此辺皆畑の村多し,然るを当村のみかく唱ふは外に故ありや云々」から来ている。このほか,日本地名基礎辞典などの書物に述べられている「田成(な)し」が「田無」となったとか,田無村は租税の収奪が他村に比べて厳しかったため,穀類の種類まで奪い取られることもしばしばで周辺では「種ナシ」の村と呼ばれ、これが「田無」になったという説もある。

6月11、16、21、26日   総持寺(℡0424-61-0044
(西東京市田無本町3‐8‐12、西武新宿線・田無)
 

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