円朝まつり(落語協会感謝祭円朝記念)

怪談、人情話を得意とした幕末から明治初期にかけての落語家三遊亭円朝を偲び、地元有志により全生庵を会場として「円朝まつり」が催される。円朝が怪談創作の参考にした幽霊画の一般公開(有料)があり、中には円山応挙や伊藤晴雨などの作品も含まれている。円朝の法要が行われるが、この期間中とくに円朝の命日である11日の前の日曜日に落語協会による、「落語協会感謝祭-円朝記念」として 奉納落語会、扇子お焚き上げ供養、芸人屋台など数々のイベントが催され大勢の落語ファンで境内が混雑する。

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扇子供養  世間では「針供養」「人形供養」「包丁供養」など色々あるが、噺家は高座で使用した扇子をお焚きあげする「扇子供養」を行う。虚無僧の尺八の音と僧侶が読経するなか、落語家が次々に扇子を火に入れて行く。落語芸術協会会長の歌丸さんも。
 
円朝幽霊画コレクション牡丹灯篭と飯島光蛾幽霊図→幽霊話といえば牡丹灯篭を思い出すほど有名だが、この幽霊はあまり怖くない。飯島光蛾のほうは怖い。
 
芸人屋台  氷金時(三遊亭金時)、半分あわ(生ビール、三遊亭金也)うどん(古今亭志ん五)などなど、工夫を凝らした出店が。写真は寄席のトリ(世之介・志ん馬の焼き鳥屋)

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落語協会07感謝祭-円朝記念忌  最寄り駅・千駄木で下りて先ず目に付くのが若い人たちの行列だ。開場時間前ではあったが寺までの片側は数百メートルに及ぶ行列だ。そして芸人達が抽選つきガイドブックを売り捌いているが、1冊100円ということもあって飛ぶように売れている。境内に入ると、噺家が出店を出したテント張りの前に参加客が群がっていて、境内は大賑わい。やがて10時半になると本堂で法要が始まる。約20分あまりで僧侶が、そして虚無僧、協会員が続いて本堂前階段を下り扇子供養がはじまる。噺家たちの使い古した扇子が次々に投げ込まれて火は勢いよく燃え上がる。落語協会長や歌丸さんたちの挨拶が終わって「開会宣言」があり数々のイベントが始まる。奉納落語会もあるのだがこれは事前申し込み制で当日は受け付けない。有名な落語家もいると見え、サインを求められる姿が多いのだがこちらは歌丸さんくらいしか知らない。それにしても若い人の間でこれほど落語が人気を集めていることに驚かされた。
 
全生庵  臨済宗国泰寺派。当庵は山岡鉄舟が、徳川幕末、明治維新の際に国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した。鉄舟との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり、円朝遣愛の幽霊画五十幅、明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。全生庵の寺名は明治7年、鉄舟が鎌倉・建長寺開山、蘭渓道隆禅師自筆の全生庵という額を人から貰い、これを書斎に掛けて愛蔵していた。明治13年鉄舟が一寺建立を発願し寺域を谷中の現在地に選定したところが計らずも 此の土地が700年前、道隆禅師が江戸に漂着し九死に一生を得て全生庵という庵室を作って閑居していた旧跡であることが分かった。鉄舟も奇縁に感じ明治16年、全生庵を寺号とし、かって江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。
 
三遊亭円朝  江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を
開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代目三遊亭圓生門下の音曲師、
橘屋圓太郎の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの
芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。「今すこし遊びたけれどお迎ひに 一足さきに、ハイ左様なら」の句を残して、明治33年8月11日、下谷車坂で死去。享年62才 。
 
8月11日前の日曜日   全生庵(03-3821-4715、落語協会03-3833-8563
台東区谷中5-4-7(地下鉄千代田線・千駄木,JR山手線日暮里)

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