深川神明宮祭礼

2006年は、「深川」の地名の発祥と言われる深川神明宮例大祭の3年に一度の本祭りだった。金曜日には本殿祭と稚児行列祭、土曜日の午前午後2回、それぞれ渡御する地域を変えての神社神輿の巡幸があり、滅多に拝めない神社大神輿とあってプロ、アマの写真家がカメラの放列を敷いた。日曜日には町内12基の大神輿が行列を組んで、300本の朱色の祭礼幟が立ち並ぶ巡行路に「勢ぞろい」と呼ばれる連合渡御を行った。大締めは12基の町神輿が清澄大通りに並び、担ぎ手・参詣人共々揃って手を締める「1万人の手締め」だ。深川八幡祭り同様、ここでも沿道から神輿に勢いよく清めの水を掛ける勇壮な水掛け祭りで(神社神輿には水は掛けない)掛け声も伝統的な「ワッショイ」だ。江戸三大祭の一つと言われた深川八幡祭りのような大きな規模では無いが、格式があって祭り好きな江戸の下町っ子の気風を十分に残した印象に残る楽しい祭りだった。

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神社神輿の宮出し  神社神輿は昭和9年、千葉県行徳の神輿師・後藤直光の作。漆塗りの段葺き屋根、神明鳥居、白木の胴の 台座4尺四方の大神輿だ。出御祭の後、鳶の頭衆の木遣りの先導で、浅黄の麻袴の氏子総代、ご鳳輦、馬に乗った神職が行列を作り、神輿の供をする。
 
深川神明宮と深川の地名の起こり 住む人もまだいなかった400年昔、深川八郎右衛門が一族を引き連れてこの地に移り住み、土地の開拓に着手した。神を敬う心が篤く、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の分霊を祀ったのが深川神明宮の起源だ。深川の地の発展とともに、深川総鎮守神明宮と称せられ、多くの崇敬を集めるようになった。 慶長元年(1596)、家康が当地を巡視したおり、深川八郎右衛門を呼びよせ地名を尋ねたが「まだ住む人も少なく地名もない」と答えると、家康は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じた。深川の地名の発祥は、神明宮の鎮座するこの地だ。
 
神明さま祭礼のクライマックス「勢揃い」  13日(日)、12基の町神輿が隊列を組んで、わっしょいの掛け声も勇ましく渡御する。深川の祭らしく、勇壮な水掛祭りだ。午前8時に森下5丁目出発、午後1時ごろ清澄通りで解散する。
 
深川の町神輿絵  神明宮の境内に並ぶ12の町神輿を納めた神輿庫の扉に、4人の絵描きによって描かれた下記各町自慢の神輿の様々な神輿絵が奉納されている。写真は森下一丁目神輿絵。神明さまが鎮座する森一は、お宮の祭礼に際しては宮元町会と呼称する。構図は、天高く神輿を差し上げたところで神輿の巡幸の中でも最も晴れやかな場面だ。左隣は千歳三の水掛け場面。12町会はは森下一、千歳三、高森、森下四、新大橋三、森下五、常盤一、新大橋一、新大橋二、森下二、常盤二、森下三。
 
 
氏子総代が手にする花笠と扇子  宮神輿の巡幸には氏子総代が浅黄の麻袴に花笠を被り手には神明宮名入りの扇子を持って供奉するが、笠に飾りつけられた花がいかにも可憐。

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1万人の手締め  解散場所の清澄通りに勢揃いした町神輿12基、その真ん中の仮設舞台で解散式が行われ、最後に祭礼委員長の発声で3本締め。解散場所の清澄通りは全面通行止めとなり、1万有余人が大手締めを行う。 

 
8月17日に近い金・土・日曜日   深川神明宮(03-3631-5548
  江東区森下1-3-17(地下鉄新宿線、大江戸線・森下)

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