半田稲荷神社祭礼

明和・安永の頃(1764~81)願人坊主が、赤い幟を片手に、赤木綿の法衣、赤鉢巻、赤頭巾、赤い脚半と赤いものずくめの風変わりな扮装で、足拍子も面白く、「葛西金町半田の稲荷、はしかも軽いが、疱瘡も軽いな、運授安産守りよ・・・」と歌って江戸市中をチラシを撒きながら歩き回り、これが、京・大坂にまで評判となって、芝居や狂言それに浮世絵まで描かれるほど江戸名所の一つに数えられた半田稲荷神社だ。初午には地口行燈を掛け連ね、神楽を奏し、幣帛を捧げ、五色の幟を立て、笛太鼓を囃し立てた賑わいだったという。その例祭が4月7日、8日に行われる。宵宮7日には国の重要文化財に指定されている松本源之助社中による里神楽が上演され、本祭りの8日には昭和5年、行徳・後藤直光の作、台輪寸法3尺の宮神輿が朝早く宮出しとなり氏子地域を巡幸する。

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「かつしか」の地名  名称のおこりについては、アイヌ語説、国語解釈説、または南方系民族によってつけられたという説など、まちまちで定説は無い現在「葛飾」と書くが、古い文献には「勝鹿」「葛餝」あるいは「可都思加」など、いろいろな文字が使われている。現在の「葛飾」の文字に統一されたのは、寛永16年(1639)徳川氏の検地以後のこと。
 
半田稲荷神社 倉稲魂神(うがのみたまのかみ)佐田彦神(さだひこのかみ)大宮女神(おおみやめのかみ)。創建は和銅とも永久年間ともいわれる。享保(1716~35)の頃には麻疹、疱瘡、安産に霊験がありとして江戸市中に広く信仰され、石柵の柱や袖石に市川団十郎、尾上菊五郎などの名前が見え、当神社の繁栄を今に伝えている。
 
金町の由来  正中二年(1325)の『関東下知状』に見え、往古この辺りの奥州古街道2面して町屋(商業地)があり、「金町屋」と呼び「金町郷」と称した。「金」は「曲(かね)」であり蛇行する川の曲渕(瀬)をいう。江戸川にちなむものと考えられる。町屋があったのは江戸川に接する金町村字小金町だといわれ対岸の松戸とともに栄えた。

半田稲荷神社宮神輿の宮出し 早朝午前7時半、発御式。祝詞、玉串奉奠、総代会会長の挨拶などが終わると、宮出しお清めの乾杯が行われ、宮出し前の儀式が始まる。達者な笛による子守唄のメロデイに乗って、白衣に狐面を被った巫女2人が手踊りを舞いながら先頭にたち、次に、半田稲荷の赤い幟を持った願人坊主の衣装を着けた2人の若者、その後に御幣を捧げ持った氏子総代のグループが従う。笛の演奏が終わると同時に神輿が担ぎ上げられて宮出しとなる。時は午前8時。大きな桜2本が満開を誇る境内から鳥居をくぐって出た神輿は願人坊主に先導され、青地に稲荷紋が白で染め抜かれた揃いの半纏を纏った担ぎ手に担がれ、葛西囃子を乗せたトラックを従えて氏子町内を廻り、再び神社に戻って宮入りするのは午後4時となる。
 
桜満開の境内からの宮出し

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願人坊主に先導される宮出し前儀式
 

葛西ばやし 240年ほど前、葛西神社の神主、能勢環という人が神を敬う歌にあわせて考え出し、村内の若者達に教えたのがはじまりだ。鳴物はしめ太鼓・太鼓・笛・鉦で編成し五人囃子とも言う。笛が文句をうたい、しめ太鼓がかけあい、太鼓と鉦が間をとって入る。その拍子のよさは祭の気分をつくりあげる名脇役だ。人前で演ずるまでに10年はかかるという。

 

発御式
願人坊主  「代わりにお参りして来てあげるからお金ちょうだい」というような物乞いをする下賤な乞食坊主。手桶を持って人の家を廻り、「坊主一文」と声をかけると、その手桶に銭を入れてもらえたという。
 
4月8日   半田稲荷神社(℡03-3607-0413)  
              葛飾区東金町4-28-22(地下鉄千代田線・金町)
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