上新田天王祭

東長沼の上新田にある津島神社は愛知県津島市にある津島神社の分霊社で疫病除けの神である牛頭天王の信仰で知られている。その祭礼は上新田の天王祭のと呼ばれて、祭典は日曜日の午前10時から行われ、午後から台座2尺3寸(70)昭和58年に前橋市・神戸農一によって作られ唐破風軒屋根・勾欄造りの神社神輿が出て氏子地域を巡行する。下新田にも津島神社があって式典は11時からで午後、昭和44年に上新田と同じく前橋市・神戸農一の作、台輪寸法2尺3寸の宮神輿が出御する。

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上新田津島神社本殿
 
鳥居に掲げられた神社名額は昔ながらの「天王社」
 
上新田津島神社 津島神社奉賛会発行の縁起書を見ると「天慶8年(945)念仏信奉者当所仁左衛門毎年玉川の氾濫とその後に起る各戸の病難を救わんと、空也上人より牛頭天王を授けられ、戸民相寄り柳島の水上に祀る」とある。「稲城民俗」によれば、明治になって廃仏毀釈の影響から八坂神社と改名したが、大正15年(1926)「愛知県津島神社(津島牛頭天王社)」のご神格奉祝のため代参を派遣し、津島神社と改名したとある。本殿は天保4年(1833)の建造。愛知県津島神社が何故、稲城、柳沢、東久留米、清瀬など多摩郡部に多く存在しているのか、不思議に思い調べたが、インターネットには縁起や由来は全く無く「稲城市の民俗」「稲城市神社建築」「稲城市史」などでも江戸時代は天王社、それが八坂神社に改名され、更に津島神社に再改名されたという記述だけで縁起については記述が無い。田無神社神官は「推定だが、その昔、津島神社の御師(おし)が諸国を廻った際、当時、野原だったこの地域の新田開発その他に関わり、祠を建立したのではないか」とのお話しが印象に残る。
 

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神社神輿の宮出し 神社の正面に「剣威除民疫」の大幟が立っている。稲城長沼駅から旧川崎街道に出て200㍍ほど立川寄りにバックした所だ。「天王社」の神社額が掲げられた赤い鳥居をくぐると正面が社殿で、その右側に大人神輿と子供神輿が赤白の幔幕に囲まれている。大人神輿には御幣が立てられ駒札は「天王社」、本棒が2本のみ、横棒無しのいわゆる2天棒だ。参道が狭いので2天棒で鳥居前の神酒所に運び、ここで横棒を付け、其処から宮出しとなる。宮出し前の注意などがあり、紙コップで乾杯、そして神輿が上がる。囃子台、幣、太鼓、子供神輿、大人神輿、山車の順だ。子供達は太鼓引き、子供神輿、山車引きに集中、子供達の周囲には母親が付き添って大人、子供、合わせてかなり大勢の人が参加している。昔は各家ごとに神輿を迎えビールやジュース、桃や西瓜など果物を振舞ったというが、今や周りはマンシヨンも多く庭に神輿を迎え入れる家は殆ど無いのだろう。こうして氏子町内を隈なくまわり神社に戻るのは夕方になる。
 
二天棒に横棒を取り付ける  参道が狭いので、二天棒で神酒所まで運び、そこで横棒を取り付け宮出しする。
 
愛知県津島神社  津島神社は一般に「津島の天王さま」と尊称されている神社だ。天王とは牛頭天王の略でインド祇園精舎の守護神で疫病除けの神といわれ、古くは、除疫、授福の神である「牛頭天王社」とも呼ばれ、京都の八坂神社と並ぶ天王社として崇められていてる。祭神は素盞鳴尊、 大穴牟遅命(大国主命)。欽明天皇元年(西暦540)に鎮座、その後弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を、一条天皇の正歴年中には天王社の号を受けて、諸国の天王社の総本社として全国に約3000の分霊社がある。織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を始め豊臣一門も信長に引き続き社領等を寄進造営した。
 
青渭囃子
 
7月第3日曜日  上新田津島神社(℡042-377-5300青渭神社
稲城市東長沼402(JR南武線・稲城長沼)
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