神田祭(陰祭り)

神田祭本祭には3基の鳳輦を中心とした神幸行列が氏子町内を巡行し町神輿の連合渡御、宮入で賑わう。平成16年から陰祭の年には大神輿が氏子町会に担ぎ出される「大神輿渡御」が行われ、氏子の108町会を3ブロックに分けて2年毎に巡行する。神官を先頭に、高張り提灯、囃子屋台、七色旗などもいっしょに巡行し、午後6時近く、人で埋め尽くされた境内に宮入を果たすと大きな歓声と拍手が沸く。また、江戸時代よりの平将門神輿が東京大空襲で焼失して以来、約60年ぶりに復活し平成17年に新調された「将門塚保存会大神輿」が大手・丸の内町会で担がれ本祭りに劣らぬ活気で都心を盛り上げる。

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大神輿渡御    陰祭りの年にも賑わいをと,平成16年から始められた宮神輿を担ぐ「大神輿渡御」、平成10年神田宮惣作の台座寸法4尺1寸の大神輿だ。2008年は日本橋ブロック(日本橋一の部、日本橋二の部、日本橋三の部、日本橋四の部、日本橋五の部、築地魚河岸会)が年番で、9日(金) 大神輿遷座祭、11日午前8時30分日本橋中学校付近で発輿祭が行われ9時出御、旧両国御仮屋・日本橋中学校付近、東日本橋交差点付近、有馬小学校付近、NTT茅場町ビル付近、日本橋小舟町郵便局付近、室町4丁目交差点付近の渡御を経て18時に宮入し着輿祭が行われた。神田明神高張り提灯、神田囃子、氏子組頭、氏子中供奉者、七色旗、渡御総責任者、御幣、各町会高張り提灯、神輿・神輿添神職ほか大勢の氏子、担ぎ手が大神輿に従い氏子町会は本祭りに劣らぬ賑わいとなる。
 
 
将門塚保存会大神輿渡御  平成17年に新調された「将門塚保存会大神輿」。陰祭の年には大手・丸の内町会で担がれる。江戸時代よりご祭神・平将門命がお乗りになった神輿が東京大空襲で焼失して以来、約60年ぶりに復活。一般的な神輿の形式とは異なる「入母屋造」で台輪3尺5寸という神輿。当社宮司・大鳥居信史と将門保存会会長で当社の氏子総代・遠藤達藏氏が設計・監修を手がけ、6世宮惣・種谷吉雄氏により制作、将門公をはじめ将門公に縁の滝夜叉姫、一遍上人の彫刻が刻まれている。史蹟将門塚保存会の参与法人会員を務め大手町・将門塚に隣接する三井物産株式会社より史蹟将門保存会に寄贈された。現在は神田明神境内に奉安されている。
 
平将門と神田明神  平安中期の武将。桓武天皇の子孫で下総常陸国に広がった平氏一族の抗争に端を発し、関東諸国の国領を襲ったことから朝廷の敵と見なされた。京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位して「新皇」を名乗り朝廷からの独立国建設を目指したが藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。中世、将門塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ神田明神に合祀された。大納言烏丸光宏は幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により将門の朝敵としての汚名は除かれている。明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であると再び逆賊として扱われ神田明神の祭神から外されたが第2次世界大戦終結後は逆に反天皇制ファシズムの時代的機運から昭和59年には平将門神は再度、神田明神に合祀された。将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。
 
雨の中、明治座前の通りを「日本橋五の部」によって渡御する
有馬小学校付近を「日本橋三の部」により巡幸する
 
高張り提灯と

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高張り提灯と七色旗   大名行列の槍持ちのような
すり足で一歩一歩前進する。
 
発御の手締め  有馬小学校付近で「第五の部」から「第三の部」へバトンタッチ。
 
美しい大神輿の鳳凰  広げた羽はグリーンと赤、尾羽と足は金色、頭は朱色で豪華なもの。
 
大手町三井物産ビルに隣接する将門塚
三井物産ビルで神輿の発御式。男も女も揃いのハッピ
 
平成17年に新調された「将門塚保存会大神輿」
一般的な神輿の形式とは異なり「入母屋造」
で台輪寸法3尺5寸。三井物産寄贈
 
 
5月15日近くの金・土・日曜日   神田神社(℡03-3254-0753
        千代田区外神田2162(JR、地下鉄丸の内線・御茶ノ水)

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