北野天満社祭礼

祭神菅原道真公の誕生日6月25日、薨去日2月25日に因み、毎月25日は御縁日として親しまれているが、ここ北野天満社の周辺は、かっては農村地帯で、豊作を祈願する「予祝の祭り」春祭りとして3月に例大祭が行われていた。現在は4月25日に近い休日の午後2時から例大祭祭事が行なわれ、当日午前10時から午後4時まで神奈川県相模原市与瀬の神楽が奉納される。

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神楽  「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的。神座とは「神の宿るところ」を意味し、神座に神々を降ろし、巫女が集まった人々の汚れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられている。古事記および日本書紀においては、岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞ったという神話が神楽の起源であるとされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は鎮魂・魂振に伴う神遊びであったとも考えられる。 神楽は、宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽(さとかぐら)に分けられる。「里神楽」には「太太神楽」「巫女神楽」「出雲神楽」「湯立神楽」「獅子神楽」「岩戸神楽」などの形式がある。
 
京都北野天満宮  菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、歿後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江の国神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947)、現在の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が藤原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
 
北野天満社  祭神・菅原道真公、横山党の一族が京都北野天満宮をこの地に勧請し「北野」の地名となる。天正19年から萬延元年まで270年間将軍家より5石の社領を受ける。毎年1月に徳川将軍への武運長久の祈祷札を献上する慣例があった。 境内社 塩竈神社(武御雷命、夫津主命、塩土老翁命)古峯原神社(大和尊命) 稲荷神社(伏見稲荷大神)

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北野天満社祭礼  神社は京王線北野駅からさほど遠くない住宅街の一角に鎮座している。平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩横山庄(現八王子)に割拠した同族的武士団「横山党」が京都北野天満宮をこの地に勧請し、これが北野という地名になったという古い神社だ。(そういえば所沢小手指にも同じ地名があり、何時も何気なく通り過ごしてきたがここにも北野天神社があるのだ)境内はさして広くはないのだがゆったりしていて古い歴史を持つ神社の風格を十分に備えている。例大祭といってもお参りする人は、疎らで2時から始まる式典を待つ人が所々にたむろし、露店2台が僅かにお祭りの雰囲気を演出している。本殿左脇の神楽殿には笛、太鼓など楽人3人だけだったが程なくして神楽が始まり、異なる面を被った舞人3人がそれぞれ約20分位づつ舞った。演目や社中の説明表示が無くさっぱり分からないので誰か知っている人をと探したが全くみつからなかった。面、衣装は立派で、それに達者な笛の音がひときわ目立ち、さぞかし立派な社中だろうが神奈川県の与瀬から来た神楽とだけしか分からなかった。昨年、北野の天王祭の際に世話になった宮司が通りかかったので挨拶をし神社を辞した。
 

 
4月25日に近い休日   北野天満社(℡0426-42-3980
              八王子市北野町550-1(京王線・北野)

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