三輪厳島神社祭礼(弁天神社)

今は産業道路が走り、両側には近代的な高層ビルが林立する京急大森町周辺だが、昭和30年代半ばまでは海苔の養殖が盛んな海浜地帯だった。通称弁天神社と呼ばれる三輪厳島神社は源義経の創建で、海面守護に立てた注連竹に黒い苔が付いたのが海苔養殖の始めと伝えられ江戸時代から海苔業者の信仰を集めている。その祭礼は5月最終の土、日曜日で土曜日には子供神輿が、日曜日には大人神輿が町内を巡幸する。午前9時半に宮出しされ氏子町内を渡御したあと午後4時に宮入する。当神社では城南担ぎではなく 一般的な江戸前で担ぐ。

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お神酒で神輿担ぎ棒を清める
発興式、お祓い
木が入り手を締める
 
三輪厳島神社祭礼次第  大森駅からバスに乗り、広い産業道路を行くと、今は近代的なビルが両側に立ち並んでいるが、昭和30年代までは潮の香りが漂っていたところだ。 「弁天神社前」で降りると、一目で祭りと分かる屋台が神社前に立ち並んでいる。 狭い鳥居をくぐると、境内の空き地を囲むように露店の色々な店がひしめき合って並び、拝殿が何処にあるか分からないほどだ。拝殿前の鳥居も狭く、神輿は拝殿と社務所の間を通る狭い道路に据えられている。「駒札」は「三輪厳島」で戦後に作られ「弁天神輿会」によって管理されている。神輿の前では「翁若社中」が賑やかなお囃子を奏で、神輿の周りは大勢の担ぎ手で埋まっているが、かなり多数の周辺各地からの応援と見えて、半纏、鉢巻などバラバラだ。参加者一同にお神酒が配られ、とくに乾杯の掛け声も無く、めいめいが盃を干している。巡幸係員がお神酒で担ぎ棒の締め綱を清め、午前9時半神官2人が現れて、簡素な発御式が行われる。あと、総代挨拶、巡幸委員長の注意があり、木が入り手締めがあって宮出しとなる。先頭が大大鼓、お囃子、木遣り、神輿の順だ。
 
宮出し 拝殿は鳥居の奥にあり、社務所は神輿の右手にある。発輿式、挨拶など総てこの道路で行われる。氏子町内を巡幸して午後4時に宮入となるが神輿は露店屋台に囲まれた境内の中で激しく揉まれて着御する。
 
三輪厳島神社 伝説によれば、今から800年前。源義経が多摩川を渡河しようとした時、二百十日の嵐のため海まで流された。義経は岸に見える小高い杜に向かい祈ったところ嵐は収まった。義経は里人と話し合い森を開き、神殿を修理し、舟を止めておいた所に注連竹を立てた。これが当社創立の起源という。里人はこののち正月11日には海面守護の神を祭り、海面に注連竹を立てたが、この注連竹に付着した黒い海藻が海苔で、鎌倉の将軍に献上し、江戸幕府将軍家にも最後まで献上されたという。この故事により、当社は江戸時代から大森の海苔業者の信仰を集めた。昭和3年に三輪神社と厳島神社が合併して三輪厳島神社となった。素戔嗚尊の子である大黒天(三輪様)と 弁財天(厳島様)を祀っている。

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大森の海苔養殖  海苔養殖は遠浅で波静かな海が良いという。大森はこの条件に適していて江戸時代の延宝年間(1673~)頃から始められ、大森の海の沖合いには養殖海苔の竹ひびが立ち並んでいた。そこで作られた高級海苔は将軍家やその菩提寺である上野寛永寺、紀伊、尾張、水戸の御三家に納入されていたほどの高級な美味しい江戸前の海苔であった。昭和30年代の高度成長期に、東京湾沖の埋め立て工事が進み、海苔漁場は姿を消し、今では千葉県側と神奈川県の一部を残すのみとなった。しかし、海苔問屋はそのまま残り、今では大森町駅あたりから平和島にかけての地域に約70軒ほどの海苔屋が集まる、全国の海苔を扱う海苔問屋の町として発展している。
 
大森ふるさとの浜辺公園   次の世代に大森の海を伝えようと、かって海苔の養殖が盛んだった場所に白い砂が400メートルにわたって敷かれ、入江や干潟を持つ都内初の区立海浜公園が完成した。多くの区民参加によるワークショップや報告会などを積み重ね、かつての大森海岸を再現した。浜辺では磯遊びが楽しめ、園内は桜やツツジに彩られて、浜風の薫るふるさとを満喫出来る。
 
5月最後の土・日曜日   三輪厳島神社(℡03-376-3909大森神社)
  大田区大森東4-35-3(JR大森→バス、弁天神社前)

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