子の神社天王祭

東久留米小山地区は「小山台遺跡」として知られ、また、東京都の緑地保全地域に指定されている所だが、この一角をしめる「子(ね)の神社」では毎年7月27日に天王祭が催される。子の神社の祭神は大国主命で例祭は2月と10月なのだが、京都八坂神社とともに祭神を牛頭天王として全国に多数の分社を持つ愛知県津島神社を境内末社として祭っているからだ。医学の発達していなかった昔、疫病の流行は最大の恐怖で、疫病除けの神・牛頭天皇の信仰は絶大なものだった。祭礼は宮司以下総代、役員達だけで行われる簡素なもので、式典の後に2基の神輿が総代達に担がれて神社社殿を3廻りする。

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子の神社天王祭見学記  神社を訪ねる前に小山台遺跡公園に立ち寄ってみた。途中、昼なお暗い森が数箇所あり東京にもこんな緑地が残っているのかと感心する。公園には人影は無くタテアナ式住居跡の復元があって、縄文ロマンの想像心を掻き立てる。神社はこの公園の隣り合わせの緑地保全地域の小高い丘の上に立っていて様々な木々が鬱蒼と繁っている。手すりの付いた急な石段を登ると境内の真ん中に大きな太鼓が据えられていて、数人の人達が打ち水をしたり祭壇にお供えをしたり忙しく働いている。津島神社は石の小さな祠でお供え物をすると見えなくなってしまう。午後2時、大大鼓が鳴り響き、本日の参加者総代役員全員が手水舎に並んで手を清め、神官の後に従って津島神社前祭場へ向かう。式典は修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌と進み、神官の挨拶があって、神輿2基の社殿廻りが始まる
 
すっかり準備の整った祭場 津島神社は石の小さな祠でお供え物をすると見えなくなってしまう。
参加者全員が手水舎で手を清める

この後、神官の後に従って津島神社前祭場へ向かう。
 
祝詞奏上、  式典は修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌と進み、最後に神官の挨拶がある
神輿2基の社殿廻り  社殿を3周するのだが最初の1周は神官が先導し、かっての大人神輿(写真左)が全くの普段着のままの役員総代たちに担がれて先に立ち、その後を、かっての子供神輿(写真右)が続く。両神輿とも明治初期作とかで、かなり古く痛まないようにと前もって四方を晒で縛って固めている。3周が終わると天気予報が悪いために両神輿と太鼓を総がかりで拝殿内に格納していた。式典参加者はこの周辺に長年住んでいてお互い「チャン」付けで呼び合っている年配者13人だけで若い人は1人もいない。天王祭といわず私が取材した4百数十件の祭りで、これほど簡素で見る人皆無の神輿祭りは初めてだ。これから先、この祭りを後継ぎして保存してくれる人が居るのだろうかと心配になる。
 
小山台遺跡(写真は縄文中期タテアナ式住居跡の復元)  小山1丁目から氷川台1丁目にかけての一帯は、「小山台遺跡」として知られ、東京都・市合同調査、発掘調査によって、住居跡、縄文式土器、打製石斧、磨製石斧、などが発見された。現在、そのうち約4,400㎡については東久留米市立の小山台遺跡公園となっている。クヌギ、コナラ、イヌシデなどの林が主体となっている約17,000㎡は、「東京都における自然の保護と回復に関する条例」に基づき、小山緑地保全地域として平成元年3月に指定された。
 
子ノ神社(小山)  旧小山村の鎮守。文禄元年8月(1592)、領主矢部藤九郎により勧請、祭神は大国主命。 子の神社の名称については古くは「根神社」「根神明社」と呼ばれていたが19世紀以後には干支の子を用い「子の神社」となる。根は根本であり基であるということで祭神を尊称した呼名と考えられる。それが新編武蔵風土記稿には「子の神社」と呼名しているところから、子は十二支の第一に呼ぶもので子の名称は暦による除災招福を意味する干支であるので時代と共に名付けも変わっていったものだろう。

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子の神社境内社津島神社  創建の縁起などは不明。愛知県津島神社の分社が何故、稲城、柳沢、東久留米、清瀬など多摩郡部に多く存在しているのか不思議だ。田無神社神官は「推定だが、その昔、津島神社の御師(おし)が諸国を廻った際、当時、野原だったこの地域の新田開発その他に関わり、祠を建立したのではないか」とのお話しが印象に残る。


愛知県津島神社
  津島神社は一般に「津島の天王さま」と尊称されている神社だ。諸国の天王社の総本社として全国に約3000の分霊社がある。織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を始め豊臣一門も信長に引き続き社領等を寄進造営した。本殿は慶長10年、清洲城主松平忠吉(家康4男)の病弱を憂えた、妻女政子の方より寄進された建物で、桃山式建築の伝統を残す優雅なものとして重要文化財に指定されている。将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続いた。
「津島神社」の小さな石の祠(ほこら)を見て 嵐、旱魃、悪疫の流行など、今でこそ科学の力でその原因も分かり対策も講じられるが、文化の進まない昔はただただ、天を仰ぎ恐れおののくばかりで何ものかに祈りすがりたい気持ちになり人間以上の力、霊力を持つものとして神の存在を信じるようになったのだろう。そして神を祀るときにその斎場になったのは村の中の丘や山の良く見える場所で、毎年同じ時期に祭壇や神の座を設けて祭りをするうちに、祭壇に代わって小さな祠をたてるようになった。祭りが村の人に大事になるにしたがい、祠は次第に大きく立派なものになるとともに、神は祭りの度に山から下りて来るので無くて何時も祠~神社に居るものと考えられるようになったのだろう。津島神社の小さな石の祠を見て、こんなことをあらためて考えさせられた。
 
 
 
7月27日 子の神社境内末社津島神社(℡042-471-1542南沢氷川神社)
             東久留米市小山1-14-25(西武池袋線・東久留米)

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