野毛六所神社祭礼

浮き沈みながら流れて来た小宮を洪水の中から命がけで引き上げ高台に安置してから玉川の洪水は以後ぴたりと治まったという謂われのある野毛六所神社、合祀されている水神社の祭りでは、かって、神社神輿が多摩川に突入したと言われる。本祭は隔年で2008年は27・28日の土・日曜日で、日曜日11時から祭典が行われ、午後1時に神社神輿が宮出しされ氏子町会を巡幸する。

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野毛六所神社神輿宮出し  宵宮には賑わい、また、夕方ともなれば参詣客も大勢見えるのだろうが、参道階段下に2店、境内に4店の露店が並んでいるだけで、境内には「野毛」と「睦」の半纏を着た担ぎ手の他、祭り客の姿は見えない。拝殿前には神輿が3基据えられているが、担がれるのは中神輿のようで、大きい神輿には担ぎ棒が無い。これを担ぐには、あまりにも人が少なすぎると役員の談。午後1時前になり発興祭の儀式は無く、挨拶、注意、乾杯があって手が締められ、神楽殿「野毛囃子」の演奏開始に合わせて神輿が上がる。神輿は境内を1周し、参道階段を下りて氏子町会への巡幸が始まるのだが、太鼓や囃子屋台の随行は無く、ただ神輿だけが練り進む形だ。氏子町会は野毛1丁目から3丁目で、周辺は坂が多く高級住宅ばかりなので担ぎ手不足に悩まされている訳が分かるような気がする。9箇所の地点で、それぞれ15分の休みを取りながら巡幸し神社に戻って来るのは午後6時半になる。
 
水神社(石の鳥居のうしろ)  多摩川は毎年のように襲って来る台風によって起きる洪水で流域に住む住民達はその洪水との戦いであった。水難事故も多かったが一方で魚は貴重なタンパク源で、住民達は川の恵みに感謝し川の安全と豊漁を願って信仰が起り水神様が祀られる様になった。何時頃、誰が建立したのか分からないが、水神様の石碑が多摩川の「オナゲ」と呼ばれる所に祀られていたが明治43年の大洪水で流出してしまった。大正時代に入って砂利採掘が盛んになり砂利採掘中に大正11年、水神様の石碑が発見されご神体は六所神社の境内に社殿が建立されて安置された。この水神社の祭礼は7月の日曜日で、大正10年頃から神輿3基が多摩川で水中渡御を行い、区長、宮司、総代の乗った屋形船も出て、迫力ある神輿振りを見せた。戦後、この神輿の水中渡御は途絶え昭和52年に一度行われたが、現在は祭礼のみで神輿の水中渡御は行われていない。

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宮出し前の乾杯
神輿庫に格納されている水神神輿
 
六所神社と多摩川  世田谷の玉川(多摩川)沿いの村では、大風や大雨のたびに、何度も洪水に襲われて家も田畑も流された。野毛の上と下の村境の所は、玉川の濁流が波打つように襲い渦を巻き、渦は壊れた家や水を泥で巻き込んでいたが、その中に浮き沈みながら流れて来た小宮が浮かび上がり、村人達は、荒れ狂う洪水の中から命がけで、お宮を引き上げ高台に安置すると、不思議な事に今まであれほどに荒れ狂っていた玉川の洪水は、ぴたりと治まってしまつた。村人達は、名主や善養寺の和尚と相談して、野毛の上と下の村の境にお宮を安置し、村の神社にすることにしたが、それ以来、洪水にあわなくなり、豊作が続いた。そして誰言うとなく、このお宮を洪水除けの神様として崇めて来た。かつては下野毛と上野毛の境に安置されていたのだがが、明治31年に現在の野毛2丁目の多摩川が見渡せる高台に移し、村内にあった天祖神社、山際神社、日枝神社、八幡神社、北野神社を一緒に祀って六所明神から、六所神社に改めた。神社前の坂道を明神坂と言い、下って左に曲がった辺りに多摩川の流路変更により取り残された池、明神池があったが、この明神坂の辺りに小宮は流れ着いてきたようだ。14世紀中期から19世紀中期の気候は、寒冷期で小氷河期の時代といわれ、天候不順で干ばつ、水害、冷害などが起きた時代だが、多摩川の大規模洪水、江戸三大飢饉なども、この影響と言われている。

野毛六所神社

9月第4日曜日   六所神社(℡ 03-3703-7364
              世田谷区野毛2-14-1(東急大井町線・等々力)

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