品川天王祭

東海道の第一の宿場であった品川には南北の天王様がある。品川神社を北の天王、荏原神社を南の天王といい、両社の祭礼を合わせて品川天王祭という。品川神社の例大祭は文明10年6月太田道灌が素盞鳴尊を勧請してから行はれ、江戸時代東海道五十三次の第1の宿駅となってから盛んとなった。その神輿は3代将軍家光公が寄付し、勝海舟が「葵の神輿」と名づけたもので、今は2代目の「480貫神輿」に代わった。通称「天下一なめの面」を屋根につけ、「大拍子」を竹の撥で叩き、笛に合わせながら激しく揉んだり、差し上げたりする品川地方独特の担ぎ方で練り歩く。土曜日夜の「おいらん道中」も人気行事だ。

スポンサーリンク

 
大神輿  寛永年間に三代将軍徳川家光から寄付された神輿をもとに明治17年6月に大工、大橋嘉七によって作られたもの。大正13年6月大祭まで渡御した。重量480貫、台輪寸法4尺3寸。
 
中神輿 大正13年作。台輪寸法3尺5寸、重量380貫(1.5トン)
 
神社大神輿と中神輿の連合渡御  品川神社には、3代将軍家光が寄進した「三代さま」と呼ばれる神輿が保存されており、これを模した大・中神輿がある。2007年は、悠仁親王誕生奉祝行事として初めて、この2つの神輿が午後6時前から7時過ぎにかけて神社前第1京浜国道を連合渡御した。大神輿は大きな祝事以外には出御しないのでその混雑が予想されて、国道の神社側上り車線は閉鎖され、ここを2つの神輿が渡御するのだが、国道両側の歩道は時間前から八つ山陸橋あたりから神社まで、数百メートルにわたって幾重もの黒山の見物客が押し寄せ、渡御が始まると神輿の前を遮るように見物人が溢れ出て、通りは興奮の坩堝と化し撮影も容易でない状態になる。神輿は城南担ぎで担がれるせいもあるのだが左右前後に揺れて前に進まない。交通規制時間の制約があるため警察がマイクで声を枯らして前に進むように促すのだが効果は無い。両側の歩道は人で埋まり駅までたどり着くのに一苦労。この後、惣町神輿が神社の急な50数段の階段を上り宮入するのを見ようと人々は動かないのだ。
 
町神輿の連合渡御  土曜日午後5時過ぎから各町会神輿の連合渡御宮入が行われ、4基の神輿が新馬場北口通りを練り歩き、あと53段の階段を上って宮入する。担ぎ棒が横に組まれ担ぎ手は神輿を挟んで向かい合い、蟹歩きで左右に蛇行しながら進む。
 
宮出し  早朝に御神面をつけた惣町神輿が五十段の急な石段を下ろされて宮出しする
 
「天下一なめの面」の神輿  家康公が奉納した通称「天下一なめの面」またの名「赤面」は、凶作が続き疫病がはやり人々が苦しんでいた、ある年、神のお告げがあり「この面を神輿に付け町々を廻れば、苦しみから救う」と。以来神輿に面を付けて渡御し家々の幸福を祈願するようになった。

スポンサーリンク

城南神輿 江戸神輿は担ぎ手全員が前を向き足並みを揃えて担ぐが、品川宿から発生した城南神輿は担ぎ棒が横に組まれ、左右の担ぎ手は神輿をはさんで向かい合い、進行方向は横になるため担ぎ手は蟹歩きになる。四方からの力が不均衡となるので前後左右にうねり蛇行しながら進む。神輿の胴には神楽で使う「大拍子」という馬の皮を張った〆太鼓をくくりつけて竹の撥で叩き、笛の音に合わせながら担ぐのも特徴だ。城南神輿は品川区、大田区、世田谷区の限られた地域で渡御されている。
 
品川神社  祭神:天比理乃 命(あめのひりのめのみこと)素盞嗚尊(すさのおのみこと)宇賀之売命(うがのめのみこと)  後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃 命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めた。
 
品川の地名由来 ① 品川は目黒川の古名 ② 出崎や山や谷があって品の良き地形であるので、高輪に対して「品ケ輪」と名づけた。 ③目黒川は、上無川の神奈川に対する下無川であるとし、「下無川」を後に品川と呼んだ④鎧の威(オドシ)に用いる品革を染め出した所であるから、品革が品川になった。⑤領主の品川氏(品河と称した時期もある)から起こったという5説があるが、5番目の領主の品河氏の名前からつけられたのが有力と言われている。品川氏は鎌倉幕府の有力御家人であったが、応永31年(1424)に鎌倉公方足利持氏の命令で館周辺以外の所領を没収され、それ以降の品川氏は史料にも見られず歴史の舞台から姿を消している。
 
 
6月7日近くの金・土・日曜日   品川神社(℡03-3474-5575
(品川区北品川3-7-15、京浜急行・新馬場)

スポンサーリンク

\ おともだちにシェアお願いします /

こちらの記事もどうぞ