鉄炮組百人隊

江戸時代、将軍家の警護や江戸城大手三門の守備などで重要な任務を務めていた鉄炮組同心百人は、まとまって屋敷を与えられ、幕末には現在の新宿百人町周辺に定住していた。昭和36年、彼等の由緒ある歴史を後世に残すべく、百人町の有志達が保存会を設立して、鎧、兜など当時の装備そのままに、「鉄炮組」を再現し、彼等が「みなあたる」と崇敬していた地元、皆中稲荷神社に奉納した。爾来、隔年の例大祭の行事として今日まで続けられている。鉄炮隊は皆中稲荷神社での出陣式と模範試射の後、長光寺(鉄炮隊同心菩提寺)境内、西戸山野球場など八ヶ所でも試射を行うが、これまでの上演はすでに20回を超えNHKテレビでも数回放映されている。

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火縄銃発射  法螺貝が響き太鼓の音がクライマックスに達する頃「放(はな)てー」の掛け声とともにいっせいに轟音が鳴り響く。空砲だが、火を噴き煙がもうもうと立ち込めて中々の迫力だ。
 

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出陣式 最前列は指揮グループ。鉄炮隊は2列め以降。
 
法螺貝の音で出陣式が始まる。百人町の名の由来は慶長7年、家康が鷹狩に来た時、大久保一帯を鉄炮隊百人組の組屋敷とすることを認めたのがきっかけで百人町と呼ばれるようになった。
 
出陣前のひと時 皆中稲荷での出陣式と試射を終えた後、鉄炮隊は長光寺(鉄炮同心菩提寺)境内、西戸山野球場など8箇所で試射を行い再び神社に帰ってくる。

新宿の地名由来  かつて新宿は、内藤新宿とか追分新宿とか呼ばれていた宿場町で、その名は「内藤家屋敷地前にできた新しい宿」を意味していた。内藤氏は藤原秀卿の末孫で、二代目清成は家康の関東移封に先立ち、伊賀組百人鉄砲隊を率いて、国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目を中心として陣屋を敷き、警備にあたった。家康が江戸入城の後、内藤氏は布陣していた新宿の地をそのまま拝領し、これが現在の新宿御苑となった。当時日本橋を起点とした甲州街道で、最初の宿場町高井戸までの距離は約4里2町(約16km)、あまりに遠く不便なため、その中間に新しい宿場町を開設した。その場所が内藤家の屋敷前であったことから新しい宿場町の意を込めて「内藤新宿」と呼ばれるようになったもの。百人町は、その鉄砲組百人隊がいたことからこの地名となった。

9月27日近くの日曜日   皆中稲荷神社(03-3361-4398
(新宿区百人町1-11-16、JR・新大久保)

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