豊川稲荷の「初午まつり」

2月最初の午の日を初午と言い、各地の稲荷神社で盛大な祭が行われる。初午は、本来は農作業が始まろうとする旧暦2月の最初の午の日に行われた。一陽来復、すべてのものが蘇り、作物の豊饒を願う神事で、それに五穀豊穣を祈願する稲荷信仰が結びついたものだ。後に商売繁盛、病気平癒、招福などに御利益があるとされて広く信仰を集めるようになったが、現在では新暦2月の最初の午の日とされているため、冬の一番寒い時期の行事となってしまった。東京赤坂豊川稲荷別院は仏教系の稲荷社で、仏典に出て来る枳尼真天(ダキニシンテン)を稲荷神・蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)の本地とするものだ。特筆するような行事は無いのだが、勝手知った境内を次々参巡する信者で溢れ、祈祷受付には長い列が出来、2千万円寄付の石塔も立っていて、由緒ある寺の信者だけの落ち着いた祭りという感じだ。

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豊川稲荷山門 
豊川稲荷本殿 
祈祷申し込みに長蛇の列
 
初午の縁起  初午の日を稲荷神の祭りとしたのは、一般に稲荷神社の総本社京都伏見稲荷の祭神が降臨したのが2月の初午の日だったからという。しかし、学者によっては稲荷が農業に関係する神様なので、農耕に使用する馬、つまり午の日を祭日として選んだという説を唱える人もいる。また、ちょうどこの頃、田の神が山から降りてくると考えられ、田の神を祭る重要な日とされていた。春に山の神が降りてきて田の神となり、秋には山に帰っていくという全国的に存在する民間の信仰と結びついた「山の神迎え」が初午へと定着して行ったとも言われている。いずれにしても初午とは春の農作の時期に豊年を祈る祭りだったのだ。
 
狐さんがいたるところに

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赤坂豊川稲荷別院 正称は豊川閣 枳尼真天堂(ほうせんかくだきにしんてんどう)。八代将軍徳川吉宗に登用された寺社奉行兼奏者番大岡越前守忠相は、三河西大平(現愛知県岡崎市)を領した。文政11年(1828)今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康尊崇の妙厳寺(現豊川市)の山門鎮守として祀られていた枳尼真天を(稲荷神・蒼稲魂命の本地)の分霊を矢倉沢往還の南に面した下屋敷内に勧請し、翌年から邸外一般の参詣に応えて繁盛祠となった。虎門金比羅・赤羽水天宮・新橋塩竈社などと同様、当時の領内名祠参詣開放の流行に従ったものである。明治20年(1887)赤坂小学校敷地となったため青山通り北側の現在地に移転、名奉行にあやかって花街・芸能人に防犯の効験で知られた。
 
狐と稲荷 境内の夥しい狐の石像は神社系稲荷社には見られないものだ。稲荷神の本地、托枳尼天(だきにてん)の本体は狐の精で、稲荷大明神と同一視(広字苑)されているからだろうか。稲荷神・蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)の別称、御饌津(みけつ)神が誤って三狐神と書かれ穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いたともいう。伏見の地には秦氏が入ってくる以前に狩猟の民が山の神を信仰しており、その象徴が当初狼であったのが、いつか狐に変化して後からやってきた農耕の民たちの神と習合したようだ。
 
 
初午の日   東京赤坂豊川稲荷別院(℡03-3408-3414
   港区元赤坂 1-4-7(地下鉄丸の内線・赤坂見附、半蔵門線・永田町)

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