柳沢津島神社祭礼

明治3年(推定)には田無神社に合祀されている柳沢津島神社だが、今でも上記住所に神社の建物がある。年に1度の祭りには宵宮の夜、神輿はお旅所に移されて御霊移しが行われ、翌日曜日、お旅所から宮出しされる。そして合祀されている田無神社境内社に向かい、ここで祭儀が行われた後、氏子町内を巡幸してお旅所に戻るのは午後5時ごろとなる。記録に「7月15日が天王様のお祭りで、かっては1区の津島神社のお祭りもこの日で、神輿がぶつかり合って喧嘩をした。昭和30年ごろまで行われていたが、神輿の担ぎ手がいなくなって中止された。昭和51年頃から津島神社の神輿は復活した」とある。現在は下里の巴睦を中心に周辺睦が応援に来てくれて、毎年のこの神輿祭りを賑やかに恙無く催行している。

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田無神社を目指して   台座3尺(92)、大正15年に阿佐ヶ谷の大工が製作した神輿は土曜日の夜、御霊移しが行われ、お旅所に鎮座している。日曜日、青梅街道を挟んだ向かい側の歩道、ちょうど「柳沢の庚申塔」が移転してきたところに移されて宮出しの儀式を待っている。午後12時45分、田無神社神官2人が到着、四方をお祓いし祝詞奏上、玉串奉奠など儀式が始まる。そして神輿長による木が入り宮出しとなる。行列は山車を先頭に神主が榊を捧げ持ち、後に責任役員、津島神社の高張り提灯と続き、しんがりが神輿となって、交通の激しい、だが両側に地口行灯が立ち並ぶ青梅街道を、田無署の警官に誘導されながら田無神社を目指し行列は進む。
 
交通量の多い青梅街道を進む神輿行列
田無神社に入御、そして出御  午後1時にお旅所を出発した神輿は30分ほどで、津島神社が境内社として合祀されている田無神社に到着する。境内にはビールやジュースなどが用意され担ぎ手達は暫しの休憩。この間、茅の輪を飾った境内社神前では祭儀が行われている。1時55分、今度は拝殿横の参道から鮮やかな黄色の半纏に担がれての出御となり、氏子町内を巡幸、途中3度の休憩を交え、お旅所に戻るのは午後5時だ。
 

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田無2丁目の柳沢津島神社
田無神社境内社津島神社神前で祭儀
神輿が巡幸する青梅街道両側には地口行灯が並ぶ
 
津島神社  祭神は建速須佐之男命。本来の神社は現在も建物は残っているが、推定では明治3年ごろ田無神社境内社として合祀されている。昭和7年に田無神社境内社の津島神社修復の寄付集めの文書に「当社は萬治元年(1658年)4月の造営で・・・」とあり、修繕代70円を氏子650戸に要請しているところを見てもかなり古い歴史を持つ神社だ。以前は敬神会で、現在は石井重雄氏を会長とする「柳沢文化財保存会」によって祀りその他の運営が行われている。合祀された元の神社が地元で変わらず毎年祭りが行われている珍しい例だ。3尺はあろうかという立派な神輿を保存し、道の両側に地口行灯を飾って古き良き伝統の神輿祭りを守り続ける柳沢住民の心意気を賞賛したい。天王社は須佐之男命を祀る神社をいうが、京都の八坂神社の祭神、牛頭天王が各地に勧請され、疫病が発生しやすい6月頃に天王祭が行われている。一方で愛知県津島神社系の牛頭天王社もあって柳沢津島神社はこの系統に属する。何故、柳沢に津島神社が勧請されたのか全く不明だ。その昔、津島神社の御師(おし)が諸国を廻った際、当時、野原だったこの地域の新田開発その他に関わり、祠を建立したのではないかという推定がある。東久留米市小山の子神社の境内社にも津島神社があり、また、清瀬の八雲神社も津島系というので、この説は捨て難い。
 
愛知県津島神社  津島神社は一般に「津島の天王さま」と尊称されている神社だ。欽明天皇元年(西暦540)に鎮座、その後弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を、一条天皇の正歴年中には天王社の号を受けて、諸国の天王社の総本社として全国に約3000の分霊社がある。織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を始め豊臣一門も信長に引き続き社領等を寄進造営した。本殿は慶長10年、清洲城主松平忠吉(家康4男)の病弱を憂えた、妻女政子の方より寄進された建物で、桃山式建築の伝統を残す優雅なものとして重要文化財に指定されている。将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続いた。
 
7月8日   柳沢津島神社(042-461-4442田無神社、042-461-3348柳沢文化財保存会長・石井様)
西東京市田無町2-21-3(西武新宿線・田無)

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